鎌倉幕府の主役は、草創期の源頼朝や彼を取り巻く御家人達の活躍を除けば、ほとんどが北条氏であったといえる。

北条氏が歴史の表舞台に立つようになるのは吾妻鏡に登場するようになってからである。頼朝の妻となった政子の父が、北条時政であり、実質的には彼が北条氏の祖といえる。時政は伊豆国の韮山に居館をかまえており、平安時代の北条氏は伊豆国の国衙に在庁官人として職をもつ地元の有力者であった。今で言えば静岡県庁の職員といったところだ。

その韮山に京都から源頼朝が流されてきた。当初時政は頼朝の監視役であったが娘の政子が頼朝と恋仲となってしまい、京都の平氏政権からみれば政治犯との縁談を認めることは自身も追討されかねないリスクを負ったということは、頼朝とともに勝算の高くない戦いに挑んだことになる。

治承3年(1179年)の平氏のクーデタにより後白河法皇が幽閉され、以仁王(もちひとおう)も長年知行してきた常興寺領を没収された(治承3年の政変)。治承4年(1180年)4月、ついに平家討伐を決意した以仁王は、源頼政の勧めに従って、平家追討の命令である「令旨(りょうじ)」を全国に雌伏する源氏に発し、平家打倒の挙兵・武装蜂起をうながした。

時政の邸宅で頼朝は平氏追討の令旨(りょうじ)を受け取った。

令旨には以仁王が自らが平家の傀儡である高倉・安徳両天皇に替わって即位をすることを仄めかす文章が含まれていたことで、京都の公家社会では以仁王の行動は次第に皇位簒奪を謀ったものと受け取られ以仁王自身の平氏追討計画は京都周辺の小規模な戦闘で鎮圧され失敗に終わった。

以仁王死後も諸国に伝えられた以仁王令旨は反平氏政権の戦いに正当性を与える根拠となり令旨を受けて源頼朝や源義仲など各国の源氏が挙兵し、これが平氏滅亡の糸口となったのである。

東国の内乱が最終的に頼朝と以仁王の遺児北陸宮を擁した義仲の二大勢力に収斂していった。

義仲が京都を占領し以仁王の遺児北陸宮の即位をもとめ後白河院と対立を深めていった。

頼朝は内乱が京都近くまで広がった治承4年(1180)ころから後白河院とむすびつき義仲を滅ぼすことになった。

後白河院政にとっての最大の課題は平氏一門が擁す安徳天皇の正統性を否定し、後鳥羽天皇にたいする禅譲の儀式を行わせることが最善の策とされていた。

義経を総大将として編成された第二遠征軍が屋島合戦・壇ノ浦合戦に連勝して平氏一門をほろぼしたが、安徳天皇は入水し三種の一つ天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)も海に沈んだため、禅譲という政治目標は達成できなかった。

平氏一門を滅ぼした後、頼朝と後白河の熾烈な政治的駆け引きが始まる。

平氏追討の戦争状態のなかで、頼朝が獲得した権限を平時体制に切り替えることで鎌倉幕府が成立していった。

元暦2年(1185)壇ノ浦で平家討伐を果たした義経が、頼朝と後白河院と対立の中、義経が後白河院より頼朝に無断でに官位を授かったりする独断専行が過ぎ、頼朝と対立し鎌倉入りを拒絶され、ついに義経追討の命が下った。

頼朝に謀反の疑いをかけられ追討の身となった義経は頼朝の許しを待つも願いが届くことはなかった。(頼朝の誤解をとくため大江広元に宛ててとりなしを依頼した書状が腰越状といわれておりその下書きと伝えられるものが残っている。)

義経は西海に逃れようとしたが暴風にあって難破し、その後、吉野・奈良・叡山・伊勢・美濃などを転々とした。ついに、義経は藤原秀衡をたより奥州平泉へ向かった。
弁慶などわずかな供回りで奥州平泉に向かう途中、安宅関を守る富樫左衛門泰家にその山伏姿を疑われたが、弁慶は咄嗟の機転で白紙の巻物を勧進帳と称して読み上げ、疑われた義経を愚か者と涙ながらに撃ち据えて難を逃れた。泰家は、義経一行と気付いたものの、弁慶の侠義に感じてこれを見逃したと言う。

平泉逗留中、頼朝との決戦を覚悟した義経は、平泉で着々と戦の準備を整えていた。
時政に命じた探索の結果、義経は奥州平泉の藤原秀衡にかくまわれていることが判明すると、頼朝は”義経を討ち取って差し出せば、奥州はもとより、常陸の国もつけて安堵しよう”と秀衡に迫ります。
秀衡亡き後平泉へ攻め入るばかりの 頼朝の態度に奥州独立国をめざすその子・泰衡が義経を討つと知った弟たち忠衡と国衡は猛然と反対するが、忠衡は泰衡の部下により暗殺され、国衡は、泰衡の動きを義経に示唆して平泉を離れた。

弁慶は藤原泰衡に義経が襲われた際に最後まで義経を守り、敵に立ちふさがり、体中に矢を受けながら仁王立ちで大往生を遂げた。

かねてから奥州独立国をめざす藤原氏を疎ましく思っていた頼朝は義経を討った藤原氏を滅ぼそうとした。奥州征伐の名目として蝦夷征伐のために任じられる臨時の官である征夷大将軍を後白河法皇に要求するも要求を拒否されると謀反人だった平氏一門も参陣を許しあらゆる軍事勢力を一手にたばね鎌倉殿の地位を磐石なものとし奥州平泉藤原氏を攻め滅ぼした。

奥州攻め後の初めての上洛でそれまで朝廷の王権に属していた祭政二重主権のうち政事権を正式に委譲され事実上の鎌倉幕府の成立ということとなった。後白河法皇の死後朝廷は頼朝を征夷大将軍に任じたが頼朝はこの任官を受けようとしなかったといわれる。

文治2年(1186)吉野で捕らわれた義経の愛妾、静御前は鎌倉に連行された。
鶴岡八幡宮の舞殿で頼朝や政子の前で”しずやしず・・・”と義経をしのぶ歌を唄いながら舞ったと言われている。(実際に静御前が舞ったのは若宮の回廊であったと伝えられている。)
そのとき義経の子を身ごもっていたが、頼朝は生まれたばかりの子を由比ヶ浜捨てさせた。わが子を失った2ヶ月後、静は京都に戻されたがその後の行方はわかっていない。

その後の政治の場で朝廷が相対しなければならないのは、鎌倉幕府で、二代将軍頼家と三代将軍実朝であった。

実朝は実子がおらず源氏の正統は自分の代で絶えるのだ、せめて高官にのぼって家名をあげておきたいと貴族化して院の近臣と同じ立場となった将軍に対し、鎌倉御家人たちから不満の声があがった。

実朝が右大臣になった翌年、承久元年(1219)一月、鶴岡八幡宮での右大臣参賀の式典が盛大に行われた帰途、八幡宮の大銀杏に隠れていた兄・二代将軍頼家の子・公暁により殺されてしまった。

これより北条氏の執権政治が始まることとなる。

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